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形而上学的問い
形而上学的問い

 同一性(同じものが普遍的に時間を越えて存在すること)と変化についていくつかの形而上学的問いが存在する。
 このリンゴが空間の内に存在し(それが現在部屋の中の机の上にある)時間の内に存在する それが一週間前に机の上になかったし今から一週間後に机の上にないだろう。
 しかし空間と時間についての、この話がどのような意味をなすのか。
 例えば空間がリンゴがそこに位置するような不可視の三次元格子のようなものであるといえるだろうか。
 リンゴや宇宙におけるすべての自然的対象が存在から全く取り除かれることを想定してみよう。
 そのとき不可視の三次元格子である空間が依然存在するだろうか?
 人々の中に存在しないのじゃないかと思う人もいるだろう。
 その人々が自然的対象なしに空間そのものが存在しない、なぜなら空間が対象同士がいかように関係しているかを我々がそこにおいて理解するような枠組みであるからと考える。
 そこに空間と時間について問う多くの他の形而上学的問いが存在する。
 形而上学において非常に異なった種の問題がほかにも存在する。
 リンゴが形而上学が抱えるあるひとつの問題に過ぎず精神的物質論も形而上学が扱う問題のひとつに含まれる。
 いま、もしエミヤが部屋にいてエミヤが精神を持つすると我々が確かにエミヤの精神がリンゴと異なった種のものであると理解できる(エミヤの精神が少しでもある種の“もの”であると仮定する)。
 エミヤの精神が非物質的であるが、リンゴが物質的対象である。
 物質的対象として扱われる場合その存在が空間のどこかに位置していると考えられる。
 エミヤの精神が“ある決まった場所”に位置していると言うことが少し不合理に聞こえるかもしれない。
 しかし彼の精神が、どこか部屋の中にあるということが言えるかも知れない。
 リンゴが明らかに個別的な場所、すなわち机の真ん中に位置している。
 精神が根本的に自然的物体と異なるということが明らかにみえる。
 しかし食べるという行為を決定する精神的なものが、いかにして実際にリンゴをかじるという自然的行為を引き起こす原因になりうるのだろうか。
 精神と物体が、もし二者が根本的に異なった種のものであるならば、いかにして因果的に相互に連結、関係しているのだろうか?
 心身問題と呼ばれており概して現在、心の哲学と呼ばれる哲学的な学問分野の下位区分に託されている。
 この分野におけるもっとも難解な問題が意識の問題である。
 心理学的考察もこの意識の問題を自然科学的に説明しようと試みている。しかしながら、どの学問も意識が何か、どのように機能しているのかを説明することが未だ出来ていない。
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